ほりすてぃっくうぃずだむ

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日本のラジオ 第11回「カナリヤ」 観劇記

挨拶抜きに、3本目にしてようやく普通の観劇記かける…。

というわけで、ゆうた[(twitter:yuta1009])さんがつぶいてて、キャッチコピーに惹かれて、昨日見てきた日本のラジオ「カナリヤ」です。バリバリ公演期間中なので触れたくないって人は見ないでね。

 

日本のラジオのブログ 日本のラジオ第11回「カナリヤ」

2015年5月29日~6月3日 新宿眼科画廊 - こりっち

リュウタ - 奥村拓(オクムラ宅)

林アン - 田中渚

 

広瀬サリナ - 八木麻衣子

横山リカ -  永田佑衣

井上ヒソカ - 蓮根わたる

豊田ツキコ - 三澤さき(ゲンパビ)

遠藤キリト - 高山五月(真空劇団)

「このへやで、ずっと好きなことをすればいい。
 ぼくと神さまが、きみを一生まもるから」

母の食事に毒を盛り、観察し続けていた少女
医療少年院を出た彼女を迎えたのは
宗教団体「ひかりのて」の幹部となっていた兄
毒と家族と信仰と、地下室の短いお話

 

 

んでね。こんなのよくやるなあと思うのですよ。

キャッチでわかると思うけど、題材的にもまあ毒含みというかさ。

でも、すごいお芝居だったなって。

 

 

まず脚本がすごくて。 

今回は(それとも毎回なのかな?)別売のパンフレットが作成されてて、セットになっているプランがあったので、それを予約してみたのですが、このパンフレットに脚本が全部載っているのね。

もちろん、観劇前に見ちゃったらいけないので、演者ポートレートと、そこに一緒に掲載されていた、登場人物の経歴と顛末だけざっと流し読みした感じで。観劇後に全部読んだのだけれど。

これだけ毒含みの題材なのに、脚本がものすごく平面になってたのね。平然と「日常」な感じで書かれてる。異常なものがそこには描/書かれているはずなのに、するっと読めて「しまう」。そこがまずすごいというか、「俺はいったい今何を飲まされているんだろう?」という不思議な感覚でした。

普通に書いたら、もっと気持ちの悪い感じのテキストになっちゃう気がします。

 

 

演者さんもすごくて。

「平面な」テキストに、ものすごく「パーソナリティ」が乗ってるんですよ。セリフを読むだけだったら本当になんてことはないテキストなんだけど、そこに今回の縁者のみなさんの演技が乗ると、ものすごい気持ち悪さが出てくる。

この「カナリヤ」に出てくる人物は、みんなどこかでおかしいと思うのだけど、でも普通でいられてるように「見える」。ここが気持ち悪い。テキストでろ過されていたはずの「気持ち悪さ」が、一見してわからない形で、にじみ出てる。わかりやすく狂気に侵されているわけではないのに、みんなどこかで狂ってる。そこに「気持ち悪さ」が感じられて、もうほんとすごいとしか言えない感じで。

それぞれのキャラクターが際立ってるのが本当にすごかった。以下キャラクターについての俺の中での解釈の話とか、印象とか、演者さんの話とか。

 

 

リュウタ - 奥村拓(オクムラ宅)

 「人として壊れて」るんですが、「笑顔や穏やかさがオブラートに」なっていてわからない。「行動してしまった狂人」だと思います。でも、普通に見えるんだよなあ…。そこがすごい。

「壊れた」「外向きの」「隠ぺいされた」「狂人」。

 

林アン - 田中渚

 「隠す気が一切ない狂人」。最初から最後まで、一貫して一番「狂って」いるのは彼女だったと思うのですが、「自分の見せ方」だけですべてをカプセルしていたのが本当にすごかった。

「壊れた」「外向きの」「隠ぺいする気もないけど」「インビジブルな」「狂人」。

 

広瀬サリナ - 八木麻衣子

 「実は一番まっとうな」「壊れちゃった」人。気の毒、一番まっとうだと感じたは彼女なのだけど、劇中さらっと全然まともじゃないことしているので、俺はだまされないぞ。「全然まともじゃないこと」を感じさせずに「まっとう」と言わしめるところがすごい。

「壊された」「内向きの」「(本来は)普通の人」。

 

横山リカ -  永田佑衣

「本当にまっとうな」「壊れていない」人。この作中において、本当に、本当に普通であり続けた(それでも内部の人間だからおかしいはおかしい)人。でも、「普通の人」として全く見えないのがすごかったところ。

「まっとうな」「外向きの」「普通の人」。 

 

井上ヒソカ - 蓮根わたる

 「人として壊れ」ているのはリュウタと同じなのです(劇中示唆されて、俺もそう思った)が、「わかりやすく発露した」、実はとても「人間らしい」人だと思います。だから、「狂人」ではない。わかりやすく「壊れている」人だしそう受け取れるし自覚があるように見えるんですが、「単純に壊れて」いないところがすごい。

実は個人的に、結構くるモノがあったキャラクターです。まともな愛し方がわからんというのをこういう風に示されるのは刺さる。

「壊れた」「外向きの」「(本来)人間らしい人」。「リュウタと同じ」といった通り、リュウタとは対偶だと思います。

 

豊田ツキコ - 三澤さき(ゲンパビ)

 「狂人に見える」「狂人でない人」。普通に読めるはずのテキストをもっとも狂わせたのは彼女だと思う。もうこの解釈でしか、このテキストは読めない。その説得力は本当にすごい。「それを愛おしいと思ってしまうの」にはクラクラしました。

井上ともども、くるモノがあったキャラクターです。まともな愛し方をされなかったことの消化のひとつとして、この示し方は刺さる。

「壊された」「内向きの」「(本来は)普通の人」。広瀬とは対偶ですね。アンとは対偶しません(あっちはモノホンの狂人だと思うので)。

  

遠藤キリト - 高山五月(真空劇団)

この人も「まっとうな」「壊れていない」人。なんだけども、とにもかくにも言動が怪しすぎて。普通なのに「おかしいんじゃないか」と思わせ続けられていた点ですごい。「テキストは普通なのにキャラクターが変」はツキコにも通じますが、「キャラクターが変」なまま「実はいい人」を両立して納得されられてしまって、すごかったなあと。

「まっとうな」「外向きの」「変人(であるように見える人)」。横山とは対偶だと思います。

 

つらつら書きましたけど、本当に演者のみなさんが「怪演」で。すごかったなあと(それしか言ってないな)。みんな全然まともじゃないんだけど、全員がまともに見えることがどれだけ気持ちが悪いことかw

 

まあオチもなく終わる(あんまりネタバレ言及したくないので)んですが、機会あったらまた見たいと思います。ずっとこんな感じ、ということであれば、すごく興味があるので。