ほりすてぃっくうぃずだむ

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『フリクリ オルタナ』がちゃんとオルタナだった話

久しくblogなんて書いていないわけですけども。
そりゃあ書くよねえ。フリクリだもん。あ、めっちゃネタバレするからな。あと原典『フリクリ』見てないやつも置いていくからな。っていうかたぶんネタバレもなにも『オルタナ』見ないとわからん事とか書くと思う。というか絶対書く。
勘弁してね。俺は好き勝手に書きたいんだ……!

ということで、まあ、リアルタイムにフリクリを観てた連中で、それで今『オルタナ』観にいく奴なんてのは、そりゃあフリクリに対して一家言あるのが当たり前だと思っているし、だからもちろん俺だってそうなわけですよ。
だからねえ、『オルタナ』と、まだ公開されてないし中身も知らんけど『プログレ』に対してだって、「はン、そんなに簡単にフリクリに比肩されるものなんて作られてたまッかい!」と思っていたし、今も変わらんです。下手にリメイク的なことしてみろただじゃおかねぇ位の気持ち。で、実際『オルタナ』を見ました。今日。

で、その感想としてはタイトルに集約される訳です。
ちゃんと『フリクリ オルタナ』だったよあれは。

まあね、フリクリである以上、出来としてフリクリと比べられちゃうのはもうどうしようもなくて、その線で比べたらがっかりする人もいて当然だろうと思うわけです。その比較だったら俺だって原典に軍配を上げるよ。思い出補正なめんな?
でも『オルタナ』な訳です。「フリクリ」に対して、何を作るのか?ということで見たとき、ちゃんと別の土俵で戦おう、モノを作ろうとする、リメイクではないオリジナルの「フリクリ」を作ろうとする、そこはちゃんとしてたんじゃないかな、と思います。

例えば「劇場版なのにOVAに合わせて6話構成」というところ。まあそもそもが海外じゃちゃんと分割されていたという話はあるにせよ、それはフォーマットとして守った、という点、それも構成もなぞりつつやる、つまり「誰の話か」というのをちゃんとやる、という部分を守った、というのは、少なくとも「土台はちゃんとフリクリであろうとする」ということであって、これは俺はよかったと思うのですよ。
ほら、フリクリだって1話はナオ太+ハル子、2話はマミ美、3話はニナモリと動くでしょ。あれと同じことを起こそうとしてるわけです。

んでね。
オルタナ』であろうとするなら、モチーフが変わる(=ジュブナイルでなくなる)っていうのは理解できるし、そもそも監督だって新谷真弓さんだって「フリクリは鶴巻さんにしか作れないんだからべつのものを作るしかないよね」と言っていて、その点で「女子高生4人組の群像劇」っていうのは、俺は悪くなかったと思うのです。そのうえでどこまでフリクリできるか、ってところのほうが重要。
そこはオマージュとかちらつかせたりすることで結構良いラインを突いていると俺は思っていて、たとえば「NEVER KNOWS BEST」という単語をよもや知らないフリクリ好きはいないと思うけど、これを結構印象的に出してくるし、で、マミ美といえばこれに紐ついて煙草を吸っている、というのも想起できるはずだけど、同じシーンであるキャラが煙草(というかたぶんココアシガレットだろうけど)らしきものを銜えていたりするわけです)。これなんかは、それがちゃんと後で効いてくる(後述します)。
第2パートなんかはゴリゴリのオマージュラッシュで、ハル子が出してくるのは激辛ケバブ(激辛カレーパンオマージュ)だし、彼氏奪って思春期のココロを刺激しようとする(先に会ったのはタッくんだよ)し、ましてやこの回のテーマは「背伸びをやめる」でさえあって(もちろんマルラバオマージュ)、その最後のセリフは「辛い(伊達よオマージュ)」な訳ですよ。こんだけオマージュかましまくってフリクリじゃなかったらそれはそれでヤバくないすか?って思ったりするわけです。「オルタナに仕込まれたオマージュ」って話なら、俺結構脱線させられる自信ありますよええ。
まあとにかく、こういうあたりから、ちゃんと「女子高生4人の群像劇でフリクリをつくろうとする」という部分は達成されていると思うわけです。「フリクリで群像劇?はあなにそれ?」という向きもあろうことは承知なんだけど、だって俺別に「フリクリ」が見たいわけじゃないもん。フリとかクリとかどーでもいいんだよ。変にやられる方がやだよ。だったらいっそこれくらい軸がズレててくれてたほうが『オルタナ』で正しいじゃん?っていう感じ。だから結局、「一見フリクリじゃないことやって、どうやってフリクリに帰結するか」だと思うのです。
その意味ではちゃんとフリクリに帰結してたんじゃないかなあ。青春群像劇仕様のフリクリに。

で、そのうえでやっぱり第6パートのペッツの扱いだけはあんまり納得がいっていない、というか物足りないのです。ここだけ正直パワーが足りてないのです。惜しむらくは。惜しむらくは!!!

第5パートでカナブンと決別(と言っていいと思う)するペッツなんですけど、彼女、原典で言えば「マミ美でありハル子」であるのですよ。ナオ太に影響を与え、ナオ太に求められ、ナオ太から去って、その後の行方が示されない、という意味ではもうキャラの立ち位置そのもののオマージュと言っていい。すでに言及した「NEVER KNOWS BESTのシーンでシガレットを銜えていた」のもペッツなら、カナブンがクライマックスシーンで特大NOを発動するのだってペッツに対してで、ありゃ要するに「好き。」「えっ」「ちゅ」な訳ですよ。
で、原典でそれに対するアンサーは、「タッくんはまだ子供だから」と「マミミックスのFooly Cooly」、そしてラストシーンの「ベース1音」。加えて言えば、「ナオ太は中学生になったあと軽音楽部に所属している」という公式の設定があるはずで(なかったら妄言だなここ)、それは「ナオ太の変化(成長)」の表現なのであって、要するにフリクリ6話ラストのあのLittle Bustersっていうのは、あの短い間にこのすべてを詰め込んでいるわけで、そのすべてにストーリーが完結してしまうカタルシスがあって、そりゃあパワフルなのですよ。
それに対して『オルタナ』は、これがまた何もアンサーがないんですよ。ペッツからの。そのあとどうなったかすらわからない。カナブンが自分に対して独白する(ここもちゃんとオマージュになっていて気は利いているなとは思ったんだけどね)だけで終わっちゃう。ハル子だってどっかいっちゃう。ええええ!もうちょっと!もうちょっとなんかあるよね!そうだよね!と思ってエンドロール後にも期待したんだけど何もなかった。さすがにこれはちょっと弱すぎる。道中いっぱいあったじゃん!進路希望調査票とかさ!MMに真っ平にされるかも知れない地球から脱出する富裕層、という設定があったならその後を描くとか、せめてペッツに言及してくれよーなー頼むよーという気持ちでいっぱい。それがないとフリクリ観たって思えないんだよー!ほんと頼むよおおお!ってなる感じ、といいますか。
結局、原典ではハル子はアトムスクを追い、マミ美はカメラマンになるといって街を出ていき、つまりそこには明確なストーリーがあってすべてが公開された中でエンディングを迎えるし、それがフリクリを見た後の観劇後感を生むのだと思っているのだけど、とてもじゃないけどそこだけはすっきりしない。NO発動の時のセリフの尺の長さとか(何せ原典は「好き。」の一言だ)、そういうのは(女子の青春モノ特有の煮え切らない独白感と受け入れられるから)どうでもいい、ただこのラストシーンだけはもっとパワーを持っていてほしかった、という気持ちでいっぱい。

パワーという点では、もう1点あって、「音がちいせえ」です。
BGMをthe pillowsとしたのはもちろんいいんだけど、音量が小さすぎます。原典のBlues Drive Monster、Last Dinosaur、I think I canのドカンという快感がない。もっと爆音でいいよ!!!!!って思いました。フリクリであるからにはthe pillowsの秀逸なMVでもあってほしい、というのはそうズレた望みじゃなかったろうと思います。結果そのほうがシーンそのものもパワー出るんだし。

あー…書いた書いた。
結局、ラストシーンが「フリクリとしては」物足りないと思うけども、これは要は台本のせいであって、ぶっちゃけ台本にはもっと細かいレベルで言いたいこともなくはない、というかホントラストシーンについてだけは書ききれないほどに言いたいことがあるから、収集つかないものを強引に片付けるために置いておくとしても、それ以外は全体的に悪くなかった、ちゃんと「オルタナティブフリクリ」であろうとした、と思えました。

で。最後に。
たぶん一番疑問符が付くのは「ハル子のキャラ造形」だと思うんだけど、実は俺これそんなに問題だと思っていません。
もしかすると「ハル子としてこうあるべきだというところは進言した」とおっしゃった新谷さんの功が大きいのかもしれないけれど、俺としては(自分を)納得させられるだけの説得力を得ることができています。
見かけたので言えば、「ハル子が姉さんになっている」って言うのは、「っていうかマミ美からハル子に対する接し方って結構姉さん的だったぜ?」とか、「ハル子からニナモリに対しては結構姉さんとして接してたりしない?」とかがあって、『オルタナ』が「女子高生4人組」であることを考えれば、そこはまあありうるんじゃない?という。
で、「アトムスクに執着していて、目的のためならこの星なんてどうなったって知らんもーんっていえちゃう身勝手さ」がない、という部分については、これは俺もそうだと思うんだけど、でも『オルタナ』ってその辺排除されていなかったかな、と思ったりするわけですよ。「アトムスク」という単語は出てこなかったと思うし、「手首の手錠」だって描写されてない(されてたら愚鈍な奴となじってほしい、でもいくら何でもそんな重要なファクターを見逃すほど耄碌してたとは思いたくない)じゃないですか。言及されないんだから執着だって描写されんだろう、と考えると、じゃあまあ(時空and/or時間軸かなんかの)どっかが原典とは違うハル子なんじゃね?と思えば納得もできるのです。最後ハル子がNOに巻き込まれるところだって、原典シーンがP!ベスパに投影されたりする演出があって、あれってフラッシュフォワードの類じゃないのもしかして、みたいな考察だってできちゃったりもするわけです。だとすれば、「アトムスクとそれに対する執着心と身勝手さ」みたいなのは、当然重要なファクターではあるけど、まあ目を瞑ってそれはそれってやってもまあいいか、という気分にはなるわけです。それ以外はちゃんとハル子はハル子だったしね。

最後に「ハル子のキャラ造形」を持ってきたのは、『プログレ』のほうでどうやらアトムスクの話すんじゃね?と思ったりしてたりするっていうのがあってのことです。あちらで言及されるなら、こっちで言及されないこともまああるよな。っていうかこれ時間軸的に『オルタナ』→原典→『プログレ』だったりするのかしら、だとしたら公開順とかラハルCV林原めぐみってのも(時間軸による表現の変化?)ありうるのか?みたいなことを考えています。今は。

思いのたけを書いたらひどい乱文になった。いずれ見直して書き直すかもしれない。…いやたぶんないな。っていうかてめえで書きたいだけ書きなぐっておいて長いよ。書き直す気にはとてもなれない。バカだなーお前。

プログレ』、楽しみですね。あちらを見たらまたなんか書く気になるかもしれない。
っていうかまたたぶんなんか書くよ。だってフリクリだもん。

余談:
エンディングアニメーション、なんか最近よく見たタッチだなあ、と思ったらPie in the skyだった。
彼らの手掛ける『せいぜいがんばれ!魔法少女くるみ』が今度円盤になります。2期も始まるし、ショートアニメだから見やすいしそっちもぜひ見てください。
俺はエセ関西弁キャラ使いであるところの温州愛媛みかん/プリマオレンジがサイコーだと思ってます。
面白いんで、ぜひ。
アイデンティティは保ったぞ